阿武隈 twitter版

    follow me on Twitter

    うねりを越えて帆走する

    1月25日 日曜 快晴 南西の風 風力5から6(阿武隈独自基準)
    0930自宅出発。三崎口駅からバスに乗り栄町バス停から徒歩でMMFにむかう。まるよし食堂で昼ごはん。
    1200MMF管理棟着。強風注意報発令中につき単独出港は控えるようにとの警告が掲示されていたが、剣埼灯台観測値で10メートルに達していない。きょうはこのまま風向と強さは一定して極端に吹き上がることはないと判断して出港する。
    この場合、事故が発生したらその落ち度は出港を判断した船長にある。出港を自分の責任において判断しなければならない局面は、特に巡航において遭遇する。
    出港判断の参考にするため、寄港した漁港の漁師やマリーナのスタッフに意見を求めるのはよくあることだ。しかし、それで出港を決意して遭難しても、責められるのはアドバイスしてくれた漁師でもマリーナでもなく、出港を決意したスキッパー本人だ。
    1210「阿武隈」上船。いつも陽気な「MACCA」船長と久しぶりに雑談をする。1300出港。ジブセイルとワンポイントリーフを入れたメインセイルの組み合わせで帆走。クローズホールドで南下と西進を繰り返す。最初、思っていたよりも風が弱く、南西から押し寄せてくる大きなうねりに翻弄されていたが、城ヶ島を越えてさらに南下するにつれて南西の風が募り、甲板を波が洗う帆走を久々に堪能した。





    天気は快晴で空の蒼は深く、空気は澄んで伊豆大島や富士山がくっきりとやけに近くに見える。気温は低く風も冷たいが、化繊のネックウォーマーで耳と後頭部から首回りを覆っていると寒さは感じない。
    1430、突然風が落ちた。風向きが急に変わるのだろうか。しばらくうねりの中で停滞する。このとき、城ヶ島灯台を磁方位50度 剣埼灯台を磁方位80度に見る。
    きょうは航海計器としてX02HTに導入したPathawayをBluetoothで接続したGPSで使っていたが、X02HTの電力管理機能で待機モードに入るたびに、画面輝度が暗すぎて復帰動作が行えなかった。航海中は待機モードをオフにしておく必要あり。
    このまま風が落ちると帰港が遅くなるので反転する。落ちていた風は、また西から吹き募ってきた。クォーターリーで東進と北上を繰り返す。うねりますます大きく、真横からどすんとタックルされると、背後から思いっきり波をかぶり、阿武隈は耐えきれずに横滑りする。
    1540、MMF入り口海域でセイルダウン。1600帰港。「ひめゆり」のメンバーに補助していただく。こちらも久しぶりに歓談。1710解装終了。1720下船。宮川町1730発のバスにギリギリで間に合った。筋肉痛で歩き方がなんか変。

    燃料と清水を補給する

    1月18日 日曜 晴れ 北東の風弱く(剣埼灯台観測値)

    1230自宅出発、三浦海岸駅からバスに乗り換えて宮川町にむかう。MMFで帰途につくスキッパーたちを「えっ、いまついたの」「えっ、これからなの」と驚かせながら、1430「阿武隈」上船。

    「阿武隈」を管理棟前の岸壁につけて清水と軽油を補給をしたい。2つある燃料増槽はすでに空で、残りは船内タンクだけになっていたが、モトラが不調で街のガススタンドで軽油を調達できないでいた。

    燃料が調達できないというのは心細いもので、いよいよ、船体タンクの燃料が半分近くになってくると、風のないときにちょっと機走で回ってこようと思っても、燃料のことが気になって出港を控えてしまうようになった。太平洋戦争で思うように艦隊を運用できなかった軍令部の気持ちが少しだけ分かったような気がする。

    セイリングクルーザーにとって、残りの燃料がタンクに半分というのは、空になったのと等しい。きょうはなんとしても燃料を調達するべく、三崎港に赴いて何とかしようと思っていたら、ハーバーマスターがスクーターを貸してくれた。おかげで街のガススタンドで安く軽油を調達できた。

    清水用ポリタンクに残っていた清水を船内タンクに移し、ポリタンクは新しい清水で充たす。二つで40リットル。今回は普段使っていない蛇腹式のポリタンクにも給水する。ひとつで10リットル。合わせて50リットル。蛇腹式タンクはボディが薄く強度に不安がある。

    燃料補給と給水を終えてポンツーンに戻る。もうすぐ17時なのにまだ明るい。港はいたって静穏。1710下船。1730に宮川町から三浦海岸駅に向かうバスに乗る。

    GGYCに行ったことがある

    1月11日 日曜 晴れ(米国ラスベガス)

     先週は週末まで米国にいた。海のないラスベガスで、いつものように調べものとリポートの繰り返しで、そこがラスベガスでもサンノゼでも台北でも幕張でも、あまり関係ないような日々を過ごしていた。宿舎から調べものをする会場までの移動はホテルの暗い裏口を結んで走るモノレールを使うので、「夜も明るいラスベガス」というのを最近まで知らないままだった。

     英語がほとんど話せないのに、海外に赴く機会が年に2〜3回ほどある。いつも、その土地のことを知らないまま日本に帰ってきてしまうのだが、まれに3〜4時間ほどの時間を見つけて、無計画に街をさ迷うことがある。

     こういう感じで一度だけサンフランシスコを歩いたことがあった。無計画にケーブルカーに乗り、なにも知らないままフィッシャーマンズワーフを西に抜け、ずんずん歩いていると、広いマリーナを見つけた。それもひとつだけでない。それぞれがフェンスやゲートで仕切られた複数のマリーナが連なっているエリアだった。そのときは夏至直前の6月で、サマータイムも始まっていたこともあって、夜の19時を回っているはずなのに、あたりは日中のように明るく、海ではアルカトラズ島をバックに数多くのセイリングクルーザーが帆走していた。





     さらにずんずん歩いていくと、静かな、といっても寂れているわけでなく、落ち着いた雰囲気のマリーナにたどり着いた。港の入り口辺りにあるクラブハウスらしき建物にマストがあって、そこに見覚えのあるバージが翻っていた。おお、あれはGolden Gate Yacht Clubのバージじゃないか。全然知らずに偶然たどり着いたこともあって、ちょっと感動してしまった。





     この時点で夜の21時を回ったところ。光の加減がようやく日没直前という感じになってきた。海に出ていた所属艇が次々と帰ってきたが、その多くはセイルを揚げたまま防波堤を越えて港に入ってくる。風は西よりでちょうど港の奥から吹いてくる。入港してきた船は港内のさほど広くない水路(YBMでいうとウエストのBバースとCバースを隔てる水路程度か)をタックタックで進んでいく。それも一隻でない。入港してくるほとんどのセーリングクルーザーが帆走で自分の係留場所まで船を進めていた。





     ごく少数の挑戦的なスキッパーがアグレッシブな帆走をしているのではなく、ほとんどのセイリングクルーザーがごく普通に水路を帆走しているのを、私は驚いて眺めていた。

     多くのセイリングクルーザーが列をなして入港していたとき、港内から一隻のパワーボートが出港してきたが、そのスキッパーは港内で帆走する船に文句をいうわけでもなく、帆走する船も自分の優先権を声高に主張することもない。セイリングクルーザーはパワーボートの航路を邪魔することなく、絶妙なタイミングとポイントでタックをこなしていく。

     その見事な帆走技術は特定の船だけのものではなく、入港する多くのセイリングクルーザーのスキッパーが同じような技術を有していた。自分の技能を超えた帆走に挑んで、係留している船にぶつけてしまう思い上がったスキッパーはひとりもいなかった。

     その後、サンフランシスコには久しく行っていないし、ほかに米国で行ったことのある都市はごくごく限られているけど、あれ以来、サンフランシスコは米国で一番好きな街になっている。



    初春の微風で帆走する

    1030自宅出発、1150三浦海岸駅、1225宮川町バス停、まるよし食堂で食事。

    YeeHawのTKさんと偶然会う。きのうのPrincessBay II回航とそのときにTKさんが乗船したY26の話を聞く。夏に予定している「伊豆諸島どこもよらずにぐるりと回って帰るバカ航海」にTKさんを誘う。セールを明るく照らすほどに光輝く夜光虫をみせてあげたい。

    1310「阿武隈」乗船。1330艤装終了。PrincessBay IIの船長と挨拶を交わす。1350出港。

    北東の微風だがジブとフルメインの組み合わせでセールを揚げる。久しぶりの帆走。わずかな風をとらえてじわじわとすすむ。ときおり、ジブシートがクククッと軋んで「阿武隈」がわずかに傾き、セールがきれいなカーブを描いてちょっとだけ加速する。



    1500反転。このとき剣埼灯台を磁方位25度に、安房埼灯台を磁方位305度に見る。風を右舷からクォーターリーに受けるがほとんど進まず。微風の追っては苦手だ。1515エンジン始動。

    1540セールを降ろして三崎港に向かう。1600海南神社に海上から詣でる。船のウイスキーを海に撒き、賽銭を海中に捧げて神社に向かってかしわ手を打つ。

    1630帰港。1705解装終了。1715下船。1730の宮川町発三浦海岸行きバスで帰る。来週は所用で船に来れない。